恋愛
――暗闇が、温かい。
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夜中にふと目が覚めて、カカシはひとつ息を吐いた。しんとした部屋の中に自分の吐息の音が染み渡る。
眠りに就いたころは窓の外は白い嵐で、風と雪とが家を打つ音がうるさかったのに。眠っている間にやんだのだろうか。でも月が出ている気配はない。きっとまだ雲が空を覆っているのだろう。雪がきっと辺り一面を覆っているから、外がぼんやりと明るい気がする。雪が発光するわけではないのに雪が降った日の晩はいつもよりも明るい。部屋の中も真っ暗ではあるが真闇ではなく、目をこらせば微妙にあたりの様子がうかがえるくらいだ。
それでも闇が支配しがちなおかげで見えないが、もしかしたら今吐いた息が白くなっていたかもしれない。部屋の中はそれくらい寒かった。雪が降った晩は明るいだけでなくて、ふだんよりも暖かいものなのだが・・・。今晩は気温が低い。――でも、なんだか温かく感じる。
布団に包まれている体だけが温かいのではない。冬の夜の空気は口の中をひんやりと乾かすのに、布団から出ている顔が温かく包まれているような気がする。感じる布団の重さにもそれが関係してはいないだろうか。しっとりと質量をもった闇が部屋の中を満たしている。
サスケがいるからだろうか。
サスケは今同じ屋根の下、隣の居間に眠っている。寝る前に寝室の隣のその部屋に客用の布団を敷いてやったら、「いつ干したんだ」と言いたげな顔をこちらではなく布団に向けていた。そのときのサスケの顔を思い出して、カカシはふ、と笑いをもらす。あんなに布団を睨みつけたって答えなんか返ってくるわけないのに。・・・それにしてもいつ干したっけ、と考えかけてすぐに、恐ろしいことになりそうなのを察知してやめた。代わりに、サスケに心の中で謝る。そして決める。今度の休みに晴れたらちゃんと干そう・・・。
今、サスケはその布団にくるまって寝ていることだろう。おやすみ、と声をかけたときには布団の上にあぐらをかいて座っていたが、言いながら電気のスイッチを切ってしまったから表情は見なかった。あのあとちゃんと布団に入ったのだろうか。なんとなく耳を澄ましてみたが、常人よりいい耳にも寝息や衣擦れの音は聞こえてこず、ただしーんと静まり返っている。思わず、サスケを泊めたのは夢で、実は家の中には自分ひとりしかいないんじゃないかと疑うくらい、何の音も聞こえてこない。
・・・でもサスケはいる。いつもとは違う家の雰囲気がそれを教えてくれる。居間に通じる戸が息づいている。壁が、天井が、床が息づいている。家全体が、星の明かり一つない暗闇の中、静かに呼吸をしている。なぜそう感じるのだろう。音も気配も何もないのに。
ただ、家が息づいているのを感じて、温かい。ふいに、呼んでみようか、という気持ちになった。
サスケは眠っているのだろうか。自分が目が覚めたのと同じように、起きていたりはしないだろうか。口を開いて息を吸う。やはり空気は冷たく口の中が一気に冷やされた。そしてカカシは声を出そうとして・・・、だがそのまま数秒間じっとして、結局声は出さないまま口を閉じた。静か過ぎてどの程度の声を出せばちょうどいいのか分からない、というのがその理由だった。頭の中で音量をイメージして、もう一度口を開いて息を吸う。しかしやはり黙ったまま。どうやったら声を出せるのか忘れてしまったみたいだ、あともう少し喉に力を込めれば声は出るはずなのに、と少し呆然と思う。いつもはどんなふうに声を出していたんだっけ・・・。
いや、だいたい、呼んでみたってどうしようもない。サスケだって眠っているんだし、起きていたとしても呼んでどうしようというのか。我ながら変なことを思いついたものだと、呼ばなかったことにほっとした。――でも、返事が返ってくれば、うれしいかもしれない。
いや、返事が返ってこなくてもいい。呼んで返事がなければ眠っているとわかるから。起きているのか眠っているのかわかればそれだけでいい。
カカシは今度は口を開く前にうん、と小さく、自分にもやっと聞こえるくらいの咳払いをして、声がちゃんと出ることを確かめた。そしてもう一度口を開いて、・・・しばらくじっとしてから、やはり声は出さずに口を閉じた。
自分の声は、この温かい気持ちのよい暗闇にはそぐわないかもしれない。自分が声を出すことで、この空気が霧散してしまうかもしれない。そんなふうに思って。それなら、起きているか眠っているかどうかだけ確かめたいのだったら、声は出さないで、直接様子を見てみるというのはどうだろうか。だったら気配を消して、戸を少しだけ開けて、そっと覗いてみればいい。この部屋は真っ暗だけど、居間には街頭の光も少しだけ入るはずだから、こちらよりは明るいはずだ。寝ているか起きているかくらいなら、もしかしたらわかるかもしれない。寝ていればそれでいい。起きていたら、・・・もし起きていたとしても気づかれなかったら、そのままベッドに戻ろう。気づかれたら、・・・気配は消すから気づかれることはないだろうけれど、気づかれたら・・・、・・・何か少し話をしよう。その前に台所に水を飲みに行くふりをして、ついでにサスケに何か温かい飲み物を入れてあげよう。・・・今日は気温が低いから。
カカシはそこまで考えると体を起こそうとしたが、やはり動くことはできなかった。なぜだか腕も足も重く、動かない。ほんの少し首に力を入れて腹に力を入れれば起き上がることができるのに、どうやって力を入れたらいいのかわからなくなってしまった。思い切ってがっと動けばきっと動けるのだろうが・・・、その力を筋肉に込めることができない。
試しに人指し指を動かしてみたら不自然に大きくぴくりと動いた。その動きに自分で驚いて、今の動きが誰か・・・誰というわけではないが・・・に気取られたのではないかと急に緊張してしまった。そして、人差し指の動きくらいでは布団が動くわけはないのだがひょっとして衣擦れの音がしてサスケに聞かれたのではないかと思って、息を詰めた。耳を澄ますと、どっ、どっ、という心臓の音がしている。でも相変わらず他の物音は何もしない。サスケが起きている気配もない。
しばらくそのまま金縛りにあったかのようにカカシは息を殺してじっとしていたが、何も起こらないことが分かると、音がしないように、細く息を吐き出した。――やっぱり、やめた。朝までちゃんと寝よう。だいたいこんな時間に何してんだ・・・、オレ。暗闇にぶぅんと冷蔵庫がうなりを上げて、静けさが消えた。その音に少し感謝して、カカシは体の力を抜く。はあ。やっとふつうに息ができるようになって安心した。鼓動が少し落ち着いてくると、やはりまだ温かい感じがしているのに気づく。闇の息遣いも、まだ、残っている。
(サスケ)
極々小さな声で、ほとんど吐息だけでサスケの名前を呼んでみる。冷蔵庫のモーター音にさえぎられて自分の耳にさえ届かないくらいの小さな声。呼んだと思ったけれど、もしかしたら声にも出ていなかったかもしれない。
もう1回、今度は自分に聞こえるくらいに囁いてみた。それは今回は冷蔵庫の音に消えずにちゃんと聞こえたけれど、鼓膜に届いたというより、口や頬や胸で音が響いたような感じがした。そして言葉を発したままの形でいる口元で、その音がやんわりと空気に溶ける。それにしたがって、暗闇の中の空気がまたすこし温かさを増したような気がした。
仄暗い部屋の中、カカシは目を閉じる。目を閉じると、隣の部屋に続く戸が手が届きそうなくらい近くにも、温かい布団からでて歩くにはつらいと思うくらい遠くにも感じる。実際の距離はどのくらいだったっけ?部屋の中を静かに漂う重さを持った空気。その空気を肺いっぱいに吸い込んで、大きく吐き出す。
・・・なんだか、どうでもよくなってしまった。このまま居心地のいい暗闇で、朝まで眠ってしまおう。そう思ったら、冷蔵庫のモーター音が少し遠ざかったような気がした。
明日サスケと顔を合わせたら、今のことを話してみようか。サスケは何と言うだろう。どうでもよさそうな反応が返ってくるんだろうな。見たわけではないけれどその場面が容易に想像できて、カカシはくっくと声を殺して低く笑った。・・・でもきっと、朝になったら忘れてしまっているような、気が、する・・・。もしかしたらこれまでにこんなに自分の家の空気を慕わしく感じたことはなかったかもしれない、と感じたときには、カカシはもう静かな寝息を立てていた。
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(・・・?)
何か音が聞こえたような気がして、サスケはぱちりと目を覚ました。いつもとは雰囲気の違う暗い部屋の中、気づくと低いモーター音が聞こえている。聞こえたと思ったのはこの音だったのだろうか。冷蔵庫の音まで違うとぼんやり思ってから、サスケはもぞもぞと寝返りをうった。動くと胸のあたりから布団の中の温かい空気が顔をわずかに掠めて逃げていく。代わりに少し首と肩がひんやりして、サスケは鼻まで埋まるように掛け布団にくるまった。自分の体温が移った布団のぬくもりに、ふうとひとつ息をつく。
温かい・・・。
目を閉じてうなずくように布団に鼻をすりつけると、この部屋と同じ匂いが布団からもした。ふいに鼻をくすぐって、意識した時にはもうわからなくなってしまうくらいの、微かな匂い。自分の家とは違うけれど、嫌じゃない。なぜだか、他人の匂いがこの家の中のすべてのものに染みついていてその中で呼吸しているというのに、不快感は感じない。――そういえば、カカシからもこんな匂いがする・・・。
そんなことを考えてから、このせんべい布団はいったいいつ干されたんだろう、と布団を敷いてもらったときにも思ったことをふと思った。人付き合いのあまりマメでなさそうなこの上忍の家になぜ客用の布団があるのかとはじめは驚いたが、いかにも使われていなさそうなその様子に納得した。そしてなぜだかくすぐったくなった。布団を押入れから引きずり出しているカカシの後ろ姿・・・、下に置いた時にほこりがあがったのを少し驚いているようだった。
その時のことを思い出して、サスケは口を笑いの形にする。布団は確かに少しほこりっぽい。それにやたら平べったくて重いけれど、それらは別にどうということもない。自分にとってはどんなところでどんなふうに眠ったとしても大差ないのだから。自分の家の布団には確かになじんでいるが、それでなければいけないことはまったくない。どこでだって同じだ。
それにしても、と考えはまた今横になっている布団のことに戻る。――客用の布団にしたらこれはあんまりだろ。
そしてまたなんだかおかしくなり、今度はうっかり声が出てしまいそうになって、布団に口を押し付けて笑いを押し殺す。サスケはしばらく身を震わせて笑いをこらえていたが、やっとそれが収まると息を大きくついてまた寝返りをうった。改めて感じるカカシの部屋のどこか不思議な雰囲気。なんだかカカシの成分が空気に溶け込んでいるようだ。それなのに、家の主のことは胡散臭いと常々思っているというのに、家はそれほど悪くない。
なぜだろう。ここに泊まるのは初めてなのに、自分の家とはまた違う親しみを感じるのは。外の街灯の弱い光にぼんやりと浮かび上がる部屋の中は、壁の色も本棚も机もすべて、確かに見慣れたものではない。・・・でも、なぜだろう。
暗闇でもすこし塗装がはげかけていると分かる壁や、何かの影みたいな天井のしみを見るでもなく眺めてから、もう一度寝ようとサスケは目を閉じかけた。――が、ふいにカカシが戸の向こうからやってくるような気がした。いや、・・・もう、いる・・・?
サスケは閉じかけた目をすばやく部屋中に走らせ、どこにもカカシの影がないことを確認した。そして、今にも戸が開くのではないかと意識を研ぎ澄ませ、布団の中で身構える。何も、敵に襲撃されるのを待っているわけではないのだから別に身構えなくても、とは思うが、これはもうクセのようなものだからしかたがない。もうずっと昔から、いつどんなことが起こっても対処できるように体は自然に動くようになっている。それだけではない、こんな月の隠れた暗い晩には何が起こるか分からないからと、意識も勝手に反応を鋭くしていた。
待て、カカシが来るわけがない・・・。ずっと、眠っているはずだ。こんな夜中にそんなことをするわけがない。
しかし、眠っているはずだと思いながらも、カカシの寝室に続く戸から意識がそらせない。実際、そこに立っている気配は感じない。なのに、なんだかそんな気がしてしまうのだ。気配に関して言えば、どんなにこちらががんばったとしてもカカシとの間にはまだ縮められない差があって、その気配をつかみきれないときはざらにある。そのことを考えると、自分が気配を感じていないときでも絶対そこにいないとは言い切れない。そう思うとますますいるはずのないカカシが戸の向こうにいるような気がする。普通に考えればそんなことはないとわかるのに。
今だって、きっとこれは錯覚だと、わかっているのだ。・・・それなのに、「起きてる?」と声をかけてきながら戸が開くような気がするのはなぜなのだろう。いや、そんなわけはない、わかっている、わかっているのだが。気づくと、いつの間にか体がこわばっていた。目も少し痛い。どうやらまばたきをすることすらためらうほど、じっと気配をうかがっていたらしい。
頭の中ではこれは錯覚だと分かっていながら、体のどこかから訴えてくる感覚に従って。・・・いるわけはないとわかっているのに気になってしょうがないのなら、いっそのこと自分から確かめてみればいいのだ。呼んで、戸を開けて。ベッドに寝ているのが分かれば、さっきからのこれがやはり錯覚だと、はっきりするではないか。もし本当に戸の向こうにいなければ。・・・ならば、もし、いたら・・・?
そしてもう一度、そんなわけはない、と思いなおした。自分とカカシが鉢合わせて驚いている場面を想像してみようとしたが、そんなところは想像しにくく、やはり全然ありえないことだと思った。だいたい、どう考えてもカカシにそんなことをする理由がない。用もないのにそんなことをするやつか?いや、あのものぐさぶりを見ていれば絶対そんなことはしないと確信をもって言える。
・・・しかし、実際カカシが何を考えているのかはさっぱりわからないが・・・。
カカシがこちらに来るのではないかと思ってから、もうずいぶん時間が経ったような気がする。こんなに長い間そこにいるわけがない。やっぱりただの錯覚だ。
――そう思うものの、やはりそのまま眠ってしまうには気にかかり、確かめようと思うと体が動かず、曖昧な気持ちになる。ふいに、鳴りつづけていた冷蔵庫の音がうぅん・・・と余韻を残したまま突然消えて、何も聞こえなくなった。そのことに一瞬気をとられ、思考が中断する。
それに少し遅れてきいんと耳鳴りが聞こえてくる。微かな耳鳴りの音以外には何も聞こえなくなってみて、部屋の中の静けさにますます動けなくなるのを感じた。そしてさらに、急に自分の心臓の音も耳につきはじめる。さっきからこんなに音をたてていただろうか。・・・こんなに鳴ったらカカシに聞こえてしまう。どっどっという鼓動と耳鳴りだけが聞こえる中、サスケはそれでもじっとまた耳を澄まそうとした。が、心臓の音が体と布団の中いっぱいに響き、それどころではない。なぜこんなに破れてしまいそうに鳴っているのだろう。布団がなかったら部屋中に届いてしまいそうだ。そう思って、改めてこの布団に感謝した。布団がこの心臓の音を吸収して、外に洩れるのを防いでくれる。
――ああ。やっぱり温かい。
そう感じた途端、なんだかいろいろのことが面倒くさくなって、カカシも心臓の音もどうでもよくなった。ふう、と少し意識してため息をついて、それでもなんとなく恐る恐る、体の力を抜いていく。短時間の間にこわばった節々がぎぎぎと鳴っているような気がした。背中の力を最後に抜いた時には思わず口から吐息が洩れ、それでやっと人心地がついた。
そうしてみると、さっきまでの自分はずいぶんおかしかったような気がする。なんであんなふうに感じたのか。そして、なぜそれを否定することができなかったのか。
――まったくもって、変な錯覚・・・。気配を察しようとしている間見るでもなく見ていた壁は、いつのまにか見慣れたものになってしまっていた。自分の家の壁よりも、この壁の傷の方が、あとになっても鮮明に思い浮かべることができるような気がする。
あの壁の傷はどうしてついたのだろう。カカシがつけたものなのだろうか。
その時のことを想像してみようとして、失敗した。この家の中でカカシが過ごしている様子など想像できない。今だってカカシが隣の部屋で眠っているなんて変な感じだ。自分たちと一緒にいるとき以外のカカシの様子などは全く想像できないのだから。
もしかしたら、今は額あてもマスクも外しているのだろうか。・・・ますます変だ。
どんな顔をしているのか見てやりたい、今だったら見られるかもしれない、と思ったが――なぜ今までそのことに気づかなかったのが不思議だ――、もう動く気が起こらず、また寝返りをうつだけに留まった。その代わりに頭の中でカカシの素顔を想像しようとする。が、それはカカシじゃなくて、別の人間のようだった。本物の、顔を隠した正体不明の怪しいカカシは、今は別のところに・・・。昼間のカカシが、自分を呼んでいる。あの時、あいつはなんと言っていたんだっけ・・・?
ぐるぐると、何と言っているともとれないカカシの声が、耳の奥でしているような気がする。「サスケ」と呼ぶ声だけは思い出せるのに、その他の言葉を鮮明に思い出すことはできない。
それを頭の中ではっきりさせようとしているうちに、それは昼間の出来事だったのか、それとも今話しかけられているのか、曖昧になり・・・、いつの間にかサスケはまた眠っていた。
+++
そして迎える、雪の日の翌朝。
外は日に照らされて、目が潰れるかと思うくらい、明るかった。
END